四季
石垣
江戸名所図会「無量山境内大絵図」でも描かれているとおり江戸中期頃から石垣の存在が確認されている。
しかし明治20年頃の道路拡幅工事により急傾斜の現在の石垣になった。
石組み本体の石材は当時のものを利用したと考えられる。
石垣の緩みが生じたため、解体補修工事を実施。
完成しまた往事の姿を取り戻した。
お陰様でご信者様のご協力で往時の石垣の姿を再現。
平成18年5月7日 竣工式
句碑
松尾芭蕉
一しぐれ 礫や降って 小石川
松尾芭蕉翁(1644年~1694年10月12日没)が延宝5年(1677年)、俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になる。)した34歳の時の作。
この頃から4年間ほどは神田上水の工事にも従事したとされ、この地には馴染みの深い俳人の一人である。
この句は本郷 壱岐坂(東京ドーム東側の坂)の中程に有った芭蕉翁と同郷(伊賀上野)の戸田権太夫亭(邸)から小石川澤蔵司稲荷方面を詠んだ句である。
澤蔵司稲荷では江戸時代から句会が開催されており、その「芭蕉堂」同人 滝澤公雄翁が発起人となり大正7年10月12日の芭蕉翁の命日に澤蔵司稲荷境内に建立された。
現在もこの地に残る「小石川」「礫川」を詠み込んだ句として地元の人々からも
親しまれている。
滝澤公雄
月かげに しのぶや聲の なき蛙
明治時代の芭蕉堂 主宰 公雄翁が小石川無量山(傳通院一山)の七不思議の一つ、
この地(傳通院山内)の蛙は学寮の修行僧の勉学の邪魔にならないように声を出して啼かないとの故事に因み詠んだ句とされる。
大きな根府川産の石に刻まれた句は明治45年1月、芭蕉堂俳諧「山吹叢誌二百号」記念に芭蕉堂門友中が発起人となり境内に建立された。
句碑背面には発起人等の名前が刻まれている。
当時の芭蕉堂の隆盛が偲ばれる。
両句碑共に戦災の火も被らず往事の面影を留めている。
杉崎月香翁
しばらくは 落花の中に 立ち尽くす
平成元年秋大祭 月曜会同人 建立
石垣解体修復工事中に澤蔵司稲荷での句会「月曜会」に参加されていたご信者様からご指摘を戴いた。
月香師はソメイ吉野ではなく八重桜「普賢象」の満開の時詠んだ句であるとのご指摘。
その後、信者様がご寄進を戴いた普賢象の八重桜の傍に句碑を移動した。
句会の方々や先代住職も好んだピンク色の八重桜は来春艶やかに咲いてくれると期待。
本堂
昭和36年に再建された木造の本堂。
内外陣は総檜(備州産)造 下陣は折り上げ格天井 内陣も二段格天井
向拝は総欅造 格天井
屋根は唐破風と千鳥破風の入母屋 本堂の絵は「松田静男」先生が「東京都近郊の木造の寺」を訪ね書かれたものです。
先生は東京と近郊に存在する木造の建物にこだわり描いていらっしゃいます。
澤蔵司稲荷が東京メトロ南北線、丸ノ内線の「後楽園」駅、
都営地下鉄三田線、 大江戸線の「春日」駅から徒歩10分程度の場所にあるとは思えません。
本堂の北側奥には御神殿が隣接し殿内お厨子には太田道灌公の念持仏と
伝わる十一面観音像(非公開)と澤蔵司尊像(4月9日の春季例大祭に年一回のご開帳)が安置されている。
澤蔵司稲荷内陣 慈眼院弥陀三尊像 松田静男画伯の描いた本堂の絵
霊屈「お穴」
まさに霊場に相応しい雰囲気の場所です。石段下には朱塗りの鳥居に囲まれ祠(ほこら)があります。
明治の頃に石組み等の若干の整備はされていますが往事の面影を留めています
江戸名所図会「無量山境内大絵図」でも描かれているとおり「鎮守の杜」に相応しい樹齢数百年の樹木に囲まれ都心とは思えない雰囲気です。
これらの木々が昭和20年5月25日の空襲で傳通院方面から類焼してきた火災が止まり澤蔵司稲荷境内の建物の一部は被災を免れ、隣接する善光寺や住宅には燃え移りませんでした。