元和6年(1620年)傳通院中興廓山上人により傳通院山内慈眼院を別当寺としてその境内に祀られた。
小石川無量山傳通院は中興正譽廓山上人の時、徳川家康公の帰依が篤く、家康公の生母於大の方の追善の為に墓所を建立し菩提寺と定めました。
於大の方のお戒名が傳通院殿の為、傳通院寿経寺と呼ばれています。
そして傳通院を関東十八檀林(今で言う全寮制仏教専門学校のような組織)の一つとして 浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内には多くの坊舎(修学僧の宿舎)が有り多くの修行僧が
浄土教の勉学をして
おりました。
縁起によると元和4戌午年(1618年)4月学寮主、極山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね入門いたしました。
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大変に才識絶倫優秀にして僅か3年余りで浄土教の奥義を修得し、元和6庚申年5月7日の夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち
「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。
今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」
と残し暁の雲に隠れたと記されています。
その為、この慈眼院が別当寺となり元和6年(1620年)澤蔵司稲荷が建立され現在に至っております。
開創以来、傳通院ならびに地元の鎮守のみならず江戸時代から板橋、練馬方面の農業を営む方々、日本橋、神田方面の商家の方々のご信仰が篤く現在に至っております。 |